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原田先生からのお手紙のご紹介。

9月よりスタートした認知症予防レクリエーションの講師として来所頂いている原田先生。
とても魅力的で、等身大の半生を描いたストーリーだったので是非皆様にも知って頂きたくご紹介させて頂きます。


生い立ち

1974年神戸市東灘区生まれ。

近くに阪神電車の踏切があり、その踏切付近で飛び込みがあった。

その影響もあり踏切の「カンカン」と言う警報音に敏感な傾向があります。

幼稚園、小学校と泣き虫で弱い性格だったが、どこかしらいつも『これやばくない?』と言った具合に周囲の状況を見ている子だった。

私が11歳の冬・・・父親が仕事に行かなくなって家に籠りだし『やばい!!』と思っていたら、私の誕生日に忽然と父親が消え、あれよあれよと転校する事になり気が付けば人格が変わり、はっちゃけた子供に成長する。

気が付けば日々の素行も悪くなり、あまりにも酷かったので強制的に女子中学校受験となり、女だらけの地獄の中学・高校生活を送る。

今振り返っても人生の中で抹消したい位の最悪な時期。

素行は更に悪くなり(万引きなどではなく、基本は喧嘩)高校時代では、先生にアホ扱いをされ、そこでも問題を起こすこととなる。

職員室の椅子を蹴り倒し器物損壊させ『大学行ったらあ!!』啖呵を切り、元来の負けん気の強さも相まって、猛勉強の末に大学受験し見事合格を勝ち取る。

大学生活へと突入した私はと言えば、小学校から高校卒業までの成長期に変化した?素の私?の本領を発揮する事となり、とにかく遊びに遊び尽くしていました。

罰が当たったのか、1995年の阪神淡路大震災で「家なき子」となる。

本気で『同情するなら金をくれ』と思っていた。

実家で祖母が喫茶店を経営していたので、大学卒業後は『私が継ぐ!』と、誰に頼まれた訳でも無いのに飲食店での仕事を渡り歩き、調理師免許を取得する。

しかし、その頃には飲食業に飽きている自分に気が付き、ここから路頭に迷うかのように、訳の分からない仕事をし続け胃潰瘍になり『あれ?おかしくない?』と、この時点で初めての人生の事を真剣に考えるようになる。

32歳。遅い。 遅すぎる。。

通院していた診療所がデイサービスを始めるということで、医師から「やってみないか?」と声掛けしてもらいお手伝いする様になる。

これがめちゃくちゃ楽しかった。

『じいちゃん、ばあちゃん、可愛いぜ!』そんな理由で介護士になる。

ここからが福祉業界での仕事の始まり。

最初は老人保健施設での介護士。

認知症専門のフロアで、これがなかなか面白い。けど、恐ろしくしんどい日々。

立てなくなる程に腰を痛め、訪問介護のヘルパーさんになる。

『やばい、めちゃくちゃ楽しい!!』

その調子の良さから、よく考えずに結婚へ!!

そして、結婚後は大阪へ。

神戸の事業所の所長さんに言われた言葉。

「大阪で仕事をするのは大変。覚悟していけ!」

本当にその通りになった。

言葉(神戸弁)をめちゃくちゃからかわれたり、なんかノリが明らかに違う。。。

ここで一旦介護の仕事を離れてみる事となる。

けど、やっぱり『福祉の仕事をしよ~と!』ってどないやねん!と突っ込みたくなる。

今まで好きに思う様に自分が思うがままを自由に生きてきた私。

そこに天職を感じた自分が居た。

そして、ふと・・・『でも、こんな感じでは、将来ご飯が食べられなくなる?』と言った気付きもあった。

これまた遅い。遅すぎる。

という訳で、40歳の時に社会福祉士を取得。

地域福祉の職に就くも24時間365日オンコール対応。

結果的に、メンタルがやられる事に。

友達の事業所でヘルパーさんとして働きながら精神保健福祉士を取得。

ここから生来の飽き性がSTARTする事になる。

本当は沢山ありますが、一部だけ経歴紹介させて頂きます。

<経歴紹介>

・堺市北区役所地域福祉課
 (公務員の仕事は性に合っていないが務めてしまう。)

・西成区の精神科クリニックでのPSW
 (医療職という事で一度は着てみたかったナース服)

・茨木病院での職業指導員
 (若い利用者さんたちから「お母さん」と謎のあだ名をつけられる)

・豊中社会福祉協議会
 (豊中ってなんか良いよね~♪なんてノリで生活支援資金部門担当)

現 在

現在は、大阪市旭区基幹相談支援センター職員・自立訓練指導員をやっています。

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